良い演奏のために目指すべきは「普通」である事

火曜は東京にレッスン。お越し頂いた皆様有難うございました。初めてお越しの方もおられました。お話させて頂いたことをお役立て頂ければ幸いに存じます。

良い音色を出すために何を注意して練習すれば?とご質問を。非常に良いご質問。

以前からレッスンでお話ししたり書いたりしている事だが、ヴァイオリンの演奏で目指すのは「普通」であること。何か特別なことをやるわけではないし、特別な表現をするわけでもない。「普通」=「普遍性」とも言えるが、それがつまらないと思う人にとってはつまらないことだろうとは思う。

絵画ならフェルメールだ。実に「普通」だ。でも30点余りという希少性を考慮しなくても最も価値ある絵画と言える。

デフォルメした絵画のようなのがヴァイオリンの演奏のイメージにはなりやすい。ロマン派以降の曲に出くわした時に、デフォルメするお話をすることも少なくはない。ヴァイオリンにはロマンティックなイメージがあるから、多くの人が望む形に作ることもレッスンでは必要な事。

けれども、自分が故玉置先生から教わった衝撃的なことの一つ。「とても多くの事は考えて、でも、何もやっていないかのように」。

金言だ。何もやっていないとは=無にということかもしれない。悟りの境地だ。究極の「普通」だ。悟りを開くにはのんびりしていたらあっという間に一生が終わる。

そのために慌てて色々もがき続けている最中であります。「普通」であろうとするために一生を費やすものなのです(幸い現在は比較的時間が取れるので、奇抜な手段を含め多くもがいた結果、今年は「普通」に一歩近づけた実感あって嬉しいです)。

「やるべきことは、人として普通に、効率よく」の趣旨のお話しをさせて頂いた。お役に立てればと願っている。

フェルメールは観られる機会が限られますので、別の「普通」の例の一つ
旧ブリヂストン美術館の頃から何度も見ていますが
自分はこの絵でゴッホを見直しました
窓の外の景色を見ているようで、あまりに「普通」でした
表現とはこしらえるものでも感じたままでもなく、見たままを誠実に写すこと
その「普通」が力を持つのだと