「一生懸命練習しているのに上達している気がしない」というお悩みを持つ方は多いかと思います。もちろん私もそのひとりです。
練習をロクにしないで「上手く弾けるようにならない」と嘆くのは問題外ですが、練習はしているのだけれど実際に上手くなっていない場合と、実際には上手くなっているのにその事に自分で気づかない場合の両方があると思います。また「上手くなっているだけ」と言う場合もあるでしょう。確かに上手くはなっているのだけれども技術的に充実しただけという場合です。
「上手くなったと感じること」=「上達感」はヴァイオリンを続けるために重要なことです。ですが揺れ動く概念です。主観と客観で評価は異なるものですし、世の中の変化の影響も受けます。「上達感」について、それから自分での「上達感」を超えて本当に自分が上手くなったと感じることについて記していきます。
「上達感」は健康の自覚に似ている
「自分が上手くなっているかどうか」は「自分が健康かどうか」の命題に共通します。「自分が健康かどうか」は自分では分かりにくい事でしょう。お医者様に診断をしてもらい「健康」のお墨付きをもらって、何となく「そうなんだ。健康なんだ」と思っているに過ぎません。
さらには客観的に健康とは思えないけれど本人では健康と思っていたり、客観的には健康であっても本人は病気と思っていることもあります。
すなわち、自分にとっての「健康」とは少し別の存在である「健康感」と言えます。「健康感」を満たしたければカフェインを摂取すれば済むことでしょうし、健康法や各種サプリなど「健康感」を提供するビジネスも数多く存在します。
ヴァイオリンもこれと同じで「上達」と「上達感」は少し異なります。実際、うまく演奏ができているのは間違ったりあらぬ音を出したりといった「気になる事が無い状態」です。身体の健康と同じで、気になる事がなく自覚症状がなければ本人にとって健康と言えます。けれども健康で気になる事の無い状態こそ「健康感」は少ないかもしれません。本当に上達した状態に「上達感」はないのです。
さらには、ヴァイオリンを含めた音楽教室でも「グレード試験」「上級クラス」など「上達感」を得られるような演出が用意されている場合も多々ありますが、こういった演出上の「上達感」は「実際の上達」とは別のものです。
自分で自覚する「上達感」や他者からの演出上の「上達感」に惑わされず、自分の演奏を客観的に適切に評価すること。大変難しい事です。ただこの点の意識は、自分が本当に上達しているかどうかを知る手がかりになるはずです。
ヴァイオリンはまずは努力
明らかに練習不足なのに「上手くならない」と嘆くケース。単純な事ですが、私自身にもあることです。練習は課題を達成するまで続けるものですが、3日で達成できる課題はほとんどありません。ヴァイオリンはひとつの事ができるのに3ヶ月かかる楽器と思うべきです。
それは健康になりたいと思う人が不健全な生活を送っていたり、痩せたいと思う人が高カロリーの食事を摂って痩せないと嘆いたりする事に似ています。ましてダイエットを3日して結果が出るわけはありません。
「分かっちゃいるけど」実行していない事は誰にでもあることで、責めるべきことではありません。できるようになりたい願望はあっても、めんどくさいしなかなかやる気が出ない。「明日から頑張る」と投げ出すのが普通というものでしょう。
多かれ少なかれ、「上達感」はこの問題との戦いです。「血のにじむような努力」なんて昭和的な言い方とも思いますが、ヴァイオリンの場合は一般的にも「努力の塊」のイメージがありますし、実際に努力の結果でのみ得られる技術も多いものです。
上手に弾ける人はこういった努力をどこかの段階でやっているはずです。それでも強い「上達感」が得られるわけでは無く「気がついたら弾けるようになっていた」というものでしょう。
それなしに「自分にはヴァイオリンが上手く弾けない」「ヴァイオリンの才能が無い」と嘆き、できる人を羨むのはちょっと努力不足ではないかなとは思います。まず自分に出来る事を可能な限り実行してみる事です。
次第にヴァイオリンが苦痛になるのは
習うようになって、次々と新しい課題をもらって、一生懸命練習して、最初のうちは目覚ましく上手くなっていく実感が得られるかもしれません。けれども、初歩のうちの非日常が日常になるにつれて目新しさが次第に薄らいでいくし、新しい刺激も少なくなっていきます。それに伴って「上達感」が無くなり、次第に嫌気がさしてきます。
最初は楽しく嬉しいものですが、残念ながら楽しいうちはまだまだです。演奏とは建物の部屋のようなもの。鉄骨だけの空間では使える部屋にはなりません。床や天井を張り、内装を整え、最終的にちょっとした家具や観葉植物がその部屋を利用する人にとっての印象になります。
楽しいうちは建物の鉄骨を作っている段階。新しい課題が減っていく頃から、外装工事から内装工事に入り部屋らしきものになる段階に入ります。内装工事はクオリティを上げていく作業で、少しの汚れも許されない部屋を作る地味で退屈かつ面倒な作業ですが、これをやらない事には他人を呼べる程の部屋にはなりません。
上手い演奏とは聴き手のもの
上手い演奏とは、お客さんの来宅に耐えうる部屋のようなもの。窓枠のホコリを指でチェックする意地悪な客にまで対応するかはともかく※、散らかり放題の部屋にお客さんを呼ぼうとは普通は思わないもの。そしてよほど荒れた部屋でなければお客さんは、調度品や絵画などに注目して評価するもの。外装や最低限の掃除はできていて当然なのです。
反面、お客さんには美しく素敵な部屋も、部屋の住人には数日も住めば退屈な日常になります。努力を重ねて充分弾けるようになってくるほど反比例して嫌気がさしてくる気持ちはこれに似ているのでしょう。皮肉な事ですが、退屈で嫌気がさす頃から他人に聴かせられる演奏になりますし、その時が自分のための演奏から他人のための演奏への転換点とも言えます。
※コンクールや受験はそういうもので審査員全員を納得させる必要があります。ホコリひとつ無い完璧に美しい部屋を目指します。
流行によっても人によっても評価の軸は揺れ動く
習っても自分が求める音楽に近づかない場合があります。自分の聴く音源の演奏スタイルと先生の知っている演奏スタイルが異なる場合があります。近年特にバロック音楽の演奏スタイルが古楽演奏的に変化しました。現代のバロック演奏のように弾きたいのに、1950年代のイ・ムジチのような弾き方を習っても、求めるイメージには一向に近づいていかないでしょう。
クラシック音楽は作曲された当時の演奏が再現されているような錯覚がありますが、案外その時々の流行に左右されて変化します。流行ですので、ある時をきっかけに世の中の常識が変わってしまう事があります。ハイフェッツが出現してスピードと音程競争を皆がするようになり、ファビオ・ビオンディのヴィヴァルディ「四季」の出現でバロック演奏のスタイルが一変しました。
すなわち、昔は正しいとされていた演奏方法がある時を堺に正しくなくなることを意味します。流行を柔軟に追いかけて対応していくべきか、それとも旧来のやり方に固執するかはその人の考え方次第ではあります。
上手くなっているかの自己判断にはこの点は大事です。ひとつの演奏も見る角度によって異なった評価がなされ、ある人には上手な演奏も別の人には下手な演奏になります。皆に「上手」と言われていても誰か一人に「下手」と言われたら、とても傷つき「上達感」なんて吹き飛びます。多方面からの評価を演奏者自身が取捨選択するのは困難です。
評価の軸が変化しうるものだから他人の評価に一喜一憂するのでしょう。「ブレのない正しい評価の軸を」は聖人君子でもない限り不可能ですが、少なくとも自分の価値観が世の中と大きく乖離していないか常にチェックする必要はあるでしょう。それが自分の演奏を適切な自己評価できるようになることにもつながります※。
※まして他人の演奏を評価する際にはなおさらで自分の価値観を常に疑う必要があります。普遍的な価値観では無く、単なる偏った個人的な嗜好に陥っていることはよくあるものです。
本当に上達できたと思える時
特に初歩段階では、理想的なヴァイオリン演奏の終着点を「大音量で複雑なパッセージを速く正確に弾く事」と勘違いしがちで、「それさえできればゴール」と結論付けがちです。もちろんそれも巧みな演奏のひとつの形で、分かりやすい「上達感」が得られるしモチベーションになり得ます。
ところが、上達するほどそう言った方向から離れ、「音楽的に弾く事」へ指導は進んでいきます※。そうなると思っていた理想的な演奏イメージとの乖離が大きくなり、自分がゴールまでどれだけの距離に位置しているのか分からなくなります。「上達感」が消え失せる瞬間です。
最近上達していない気がすると思った時に、ゴールの設定がいつの間にか遠くなっているかもしれません。先生の指導によってゴールが遠ざかることもありますし、自分の成長によって本当のゴールは思っていたより遠いことに気づく場合もあります。
そして、果てしないゴールへと歩み続けた結果として充分上達し、自分の演奏を適切に自己評価できるようになった時には、いつの間にか「上達感」がモチベーションでは無くなっていると思います。
「上達感」は学校の勉強のようなゴールの決まっている事に対する自己評価ですが、音楽の本当のゴールは無限に遠いものなのですから。演奏の目的は他人を喜ばせる利他的なもの。利他的な行為に自分の「上達感」は相容れないものです。そして利他的な演奏ができてお客様に喜んでもらえた時にはじめて「自分が本当に上達した」と感じられるでしょう。
※もちろん禅問答ではレッスンは成立しませんし、私自身も道半ばですが「音楽的に弾くのはどういうことか」について年単位で時間をかけて説明をします。少なくとも教える側が「ああしなさい」「こうしなさい」と表現を全てこしらえては聞き手を喜ばせる演奏はできない。「教え過ぎは教え足らないより有害」です。
