ヴァイオリンの先生は「ヴァイオリン レッスン」「ヴァイオリン 教室」などのキーワードで検索すれば簡単に見つかります。個人レッスン/グループレッスン、対面レッスン/オンラインレッスンとレッスン形態は多様化していて希望に合致しそうな選択肢が用意されています。レッスン料もレッスン時間も多様です。
けれども知りたいのは、
- その先生に習うことによって自分にメリットが得られるか
という点ではないでしょうか?それは感情やムードで得られる事ではなく冷徹にメリット/デメリットを計算する方が良いし、先生はあくまでも経験の提供と助言であり経験・助言を生かすのは自分自身です。
どういう人物の助言が自分にとってメリットになるのか。そのように考えると目的を見誤る事なく望ましい先生を探すことができるかと思います。
レッスンで学ぶ事1:ルール
学ぶことはヴァイオリン演奏のルールです。ヴァイオリン演奏も方法論は確立されていて、然るべきルールに沿えば適切に弾けますし、そのためやるべき教本や練習内容も決まっています。そして名演奏家や知るべき名曲、名器などヴァイオリンの世界の価値観も学ぶべきルールでしょう。
ルール習得だけなら多くの支援ツール・利用できるサイトがあります。
- 自分の演奏を客観的に見たければビデオ撮影
- リズム確認にはメトロノームアプリ
- 音程確認にはチューナーアプリ
- 楽典・楽語・作曲家情報はWikipedia
- 楽譜はIMSLP
- 音源はApple Music
どれもかつては先生の助言を得つつ大きなコストをかけて手にする事でしたが、現代ではスマホひとつで可能です。むしろネット情報やAIの方が先生よりも詳しく正しいことも多いでしょう。先生の存在価値は、情報そのものよりも最短ルートでルールの習得ができるよう情報の実際の意味、優先度、提示順序を考慮して示してくれる事に変容したと言えます。すなわちリアルな世界での情報の扱い方です。
ただ「練習しなさい」「頑張りなさい」「心を込めなさい」ではルールは習得できません。これらの言葉が多用されるレッスンは無意味です。どの点に気をつけて練習すべきなのか、どこが頑張りどころなのか、心を込める事がどう言う事なのか、の指導があって初めてルールの習得につながります。
また評価も感情的に怒ったり褒めたりではなく「こういう点は良くこういう点は問題がある」と冷徹に客観的事実を示してもらうべきでしょう。怒る先生は減りましたがむやみに褒めることは怒るよりも生徒を潰します。ルールの習得は適切な評価によって得られるものなのです。
人並みにルールを習得できれば社会に出る事ができます。自分のヴァイオリン演奏を他人に聴いてもらうことも、合奏も、ネット配信も社会的行為です。ルールに沿えなければ批判され、ルールに沿えれば時には賞賛を得られるでしょう。それが演奏をする喜び・幸せにつながるかもしれません。習う事で得られるメリットです。
レッスンで学ぶ事2:経験
レッスンでしか得られない経験があります。練習曲や音階はレッスンでの指導がなければ自分の意志で続けること困難でしょう。また先生の生音を聴いたり、その場で反応をもらえる経験は、得難い事でしょう。
先生の生音の音量・響き具合はスピーカーでは分かり得ないことですし、生徒自身の演奏を向上させる上でも大いに有効です。自分の音は知っている音しか出せないものなので、まずその基準になるのは先生の音になります。先生の音があってのレッスンなのです。
やたら長々と先生が弾くのは良い指導とは言えませんが、同じ空間で目の前での経験は思った以上に重要です。特に基礎練習を部分的にでも弾いてもらえるのは通常音源などで聴くことのできない事なので貴重です。
先生によっては先生の楽器を弾かせてもらえる場合もあるでしょう。これは昔からされてきた事で指導的な効果のためです。実際大きな効果が得られます。ただ現代では生徒さんの方が良い楽器を持っていることも少なくないので、先生側に楽器を見る目がありつつ勘違いがなければという条件が付きます。
そして、自分の問題を即座に指摘してもらえる、言葉での指摘がなくても先生の表情や仕草で反応を知る事ができる、といったリアリティと即応性はレッスンでしか得られない事でしょう。これも自分だけでの練習では得られない経験でしょう。
こういった様々な観点で演奏の実体験を多く提供してもらえる先生が良い先生の条件のひとつと言えると思います。これも習う大きなメリットです。
逆に、レッスンで先生の音を見たり聴こうとしなかったり、演奏途中で止められるのを嫌がったりするのは、レッスンの効果を自ら捨てている事になります。そういう方にはレッスンはそもそも不向きでしょう。
位置付けはかつてと異なります
かつての音楽教育は単純でした。ソリスティックな強い音で正しい音程で感情的な演奏ができれば良かった。それに沿った厳しいレッスンに耐えて有名音大に進学してプロになれば、充分な収入も得られ社会的にも認められた。レッスンにも演奏にも楽しみは存在しませんでした。
かつての受験戦争と同じことで、試験に沿った勉強だけをして有名大学に進学して大企業に就職すれば一生安泰で社会的信用も得られたことに似ています。
そんな時代は遥か昔に過ぎ去りました。かつての名門音大も定員割れし、音大を卒業しても音楽で仕事を得られる人は極めて限られるようになりました。かつてのような音楽教育のストーリーは現代では価値を持たない時代錯誤なストーリーになってしまったと言えます。
出身音大やコンクール歴を頼りに先生を探すことは手掛かりにはなりますが、先生側の価値観が古いままであれば、生徒側の幸せには繋がらないかもしれません。生徒の幸せにつながらないレッスンはメリットとは言えません。
人間関係もかつてと異なります
かつては教育の名の下に、体罰や罵詈雑言、罵倒は当たり前のようにレッスンではなされていました。生徒側は「コノヤロウ」と思いながらそれに耐えてプロ演奏家になれれば、その我慢を超えたリターンが得られる時代のことでした。
けれども、現在では人間関係の形自体が以前と全く異なります。学校でのモンスターペアレントに代表されるように、先生の立場は弱く軽くなりました。そして提供側が責任を取らされるようになりました。その変化に先生自身が気づいていないのであれば、それは古い体質の非常識な先生という事になってしまいます。
それゆえ、生徒を信頼し採算度外視で誠心誠意この人を引き上げよう、という熱血先生も存在し得なくなりました。責任を担保できないし過度なコストがかかるし余計なお世話でしかありません。責任・コストに見合わない規格外の対処は行わない事が現代のビジネスです。生徒側も過度に甘えれば突き放されるのが現代と認識しておく必要もあります。
先生が聖職と呼ばれ特別だった仕事から、報酬に応じた成果を提供するビジネスへ。世の中の変化を先生側・生徒側双方が認識する必要があるでしょう。
良い先生とは
出身大学やコンクール歴が良い先生を意味する時代は過ぎ去りました。情報は簡単に安価に入手できるようになりました。先生を信頼してついていけばバラ色の未来が待っている時代も過ぎ去りました。先生側にとっても過度に信頼されても責任を取れなくなりました。信頼することも信頼されることも教える側には嬉しい事ですが、そこに責任が伴うことになりました。先生の人柄は自身が記すSNSやブログなどの記事で容易に推し量る事ができるようになりました。
教育の前提が大きく変わった現代で、良い先生とは
- 感覚でなく論理でルールを戦略的に取捨選択して教える
- 価値観が社会常識・良識に沿っている
- 生徒自身の経験になるよう事実を示してもらえる
- そしてヴァイオリンを弾く喜びの心が少し分かる
ことになるでしょうか。多様な価値観になった現代では専門バカも世間知らずも通用せず、先生側に必要とされることは結局は「人間としてまともな人柄」ということかもしれません。そして生徒側もまともな人格でなければカスハラとして簡単に放り出されます。
論理性、価値観、良識、音楽を愛する心。その印象で選ぶと良い先生に出会え、結果としてヴァイオリンの演奏技術だけでなくこの世界全般について上達できる=ご自身へのメリットになる可能性が高いと言えます。
「練習曲をこなしなさい」ではなく、「どのようにこなすか」があっての指導です
「カイザーをこなしなさい」だけでは指導にもなりません
スマホひとつで聴くべき音源も容易に知りうるし数多く横断的に聴けるようになりました
望めば勉強はいくらでもできる
昔は先生に師事する事ではじめて接しうるものでした
自分も先生に音源やビデオを貸して頂いたことがありました